1.出発の日 

 これから冬になるというのに、私"小泉亜紀"は、イギリスへ行こうとしている。なにせ初めてのイギリスであるから、果たしてどのくらい寒いのかもわからない。旅行用トランクの中はほとんど洋服だ。自分の体重の3分の1はあるだろうそのトランクとカメラ2台、モノクロ、カラー合わせて50本以上のフィルム。とりあえず荷物はそんなものだ。ああ、忘れてはいけない、妹にもらった御守りのネックレス。これはいつも身に付けていよう。 

 短大を卒業して広告制作会社に通い始め、まだ間もない頃、私は朝のラッシュが嫌いだった。中でも、地下鉄の乗り換え通路を歩くときが、痴漢にあうときよりも何よりも私は嫌いだった。自分の意志がまるでないかのように無表情で、ひたすら仕事場へ足を運ぶビジネスマン、香水の匂いをプンプンさせてツカツカ歩くOLや女子大生。足音の波に自分の意志がかき消されてしまいそうな気がした。ザッザッザッという兵隊の行進のような足音が、地下の長い通路にこだまして、2倍にも3倍にも聞こえてきた。自分の足音が聞こえない。このままここに居たら駄目になる、本物の自分が消されてゆく、そう思った。 

 トランクの車の音が鳴り響く南ウィングに私はいる。地下鉄の乗り換え通路のように人が溢れている。まるでロボット達がひしめきあっているようにも感じられた。トランクのゴロゴロゴロという猫撫で声の様な車の音が、ホールにこだまする。誰もが自分の足音を一歩づつ確かめながら進んでいく。

「もうここでいいよ」

エスカレーターの下にまで見送りに来ようとする家族達に、私はぶっきらぼうに言った。 

「せっかくだから下まで行くよ」

 いつまでたっても心配性の親にため息がでた。(心配してくれているのはとてもありがたいのだが)ドラマのように後ろを振り向かず手を振ってエスカレーターに足を掛け、かっこよく消えて行くはずだったのに。 しかし、そうしたかったなんてこと決して言うべきではない。なぜなら、『それなら最初からやろう!家族一人一人に抱き付いて別れを惜しむ所からだ』とでも言い兼ねない、そうゆう家族なのだ。

 結局、出国カウンターのホールまで彼らは付いてきた。そろそろ恥ずかしくなってきた私は、他人の振りをしてスタスタと歩いていた。彼らはまだ大きく手を振っているらしい。出国のスタンプを押してもらった瞬間から、浮き足立った様な気持ちになった。彼らの姿はもう見えない。

カメラと、何本かのフィルムだけが入っているDAYバッグを軽やかに背負い、ズンズンと私は、機内へ乗り込んでいった。

 

 2.訳ありの女

 私の右隣りに20代半ばにさしかかろうとしている女性が座っている。容姿は良くもなく、悪くもなく、しかしどこか影のある感じを漂わせている。せっかくサービスでやっている機内シアターも見ず、オトコと一緒に撮った写真を眺めながら、ウォークマンで(たぶん)思い出の曲なんかを聴いたりして一人浸っているのだ。

 『訳ありっぽくて興味あるかも』と思いつつ私は映画を必死に見続ける。タダで2本も映画が見られる、それもビデオが出てからとケチってまだ見ていなかったもの。逃す手はない。

 写真を見終わるや否や、訳ありの彼女は、A4サイズほどの大きなスケジュール帳を取り出し、何やら書き始めた。映画に集中しようと思いつつも、『覗きたい!!』やじ馬の血が騒ぐ。その瞬間、すでに私は覗き込んでいた。

【今日はケンちゃんと何も喋れなかった。】

これはもしや、独りよがりの日記ではないか!私の胸は興味の心でいっぱいになった。

【…他の子とばかり話してて私とは全然話してくれないの。意地悪してるのかなぁケンちゃんのバーカ。知らないから。】

なるほど、彼女は片思い。ドラマの舞台はどうやらアルバイト先らしい。よくあるパターンの恋愛だ。まぁ、二人きりで写っている写真があるということは、いちおう彼女の気持ちはケンちゃんとやらに伝わっているのだろう。しかし、よくもまぁこんな丸っこくて良く分からない文字をサラサラと書けるものだ。しかも良く見てみると、日付は2週間前。日記というのはその日に書くものではなかったかしら?私は少し背筋を伸ばし、シートにピッタリと腰をつけ、流し目の状態で彼女の日記帳を覗き込み続けた。

 おやっ、日付が変わったようである。

【今日はケンちゃんと話しをしました。ロンドンに行くことを話したけれどあまり関心を示してくれませんでした。やっぱりケンちゃんのイメージにはニューヨークのほうが似合ってるのかなぁ。でもお土産はいっぱい買ってこようっと】

 ケンちゃんという名の彼は、どうやら彼女に興味がないらしい。彼女のほうは、自分ではなく、ロンドンに対して興味がないものだと考えているようだ。愛は盲目、ロンドンだろうが、ニューヨークだろうが、自分が惚れている女であれば、一人きりで海外に行こうとしているその場所に対して興味を持たない訳がない。何年も付き合っていて馴れ合いになっている二人ならまだしも。

 彼女にとってロンドンへの一人旅が、片思いの彼への最大の自己アピールだったのであろう。『一人きりで行くなんて、かっこいいよなぁ。でも、気をつけろよな。』そして、彼女はきっとこれに続く、乙女心を震わせるような甘い言葉を待っていたに違いない。ケナゲである。

 私にこんなことを思われているとも知らず、彼女はひたすら丸文字で書き続ける。

【悪口ばっかり書いたけど、やっぱりケンちゃん大好き!】

ああ、乙女心と霧の街。

 一本目の映画が終わりに近づいた頃、すこし眠たくなっていた。周りを見回すと、ほとんどの乗客が眠りについている。2本目の映画が始まるまで1時間ほどある、少し眠ろう。 毛布を取ろうとしてシートから立ち上がった私に気づき、左隣りに座っていた彼女がすっと立ち上がった。今年20歳になる程であろう彼女は、腕を伸ばし私のために毛布を取ってくれた。

「どうも、すみません。ありがとう」

ごく一般的ないかにも日本人らしいお礼の言葉を述べた後、私は毛布を受け取った。

「一人ですか?」

彼女は親しみを込めて私に尋ねてきた。

「ええ、まぁ。あなたも?」

「はい。でもウィンブルドンの方に叔父さんが住んでいるから、そこに一ヵ月だけ居候させてもらうんです。だから一人旅は今だけかも。」 

「へぇ。ウィンブルドンに住んでるんだぁ。良いところでしょ、きっと」

 そう言いながらも私は、父親のことを考えざるをえなかった。テニス好きの彼は、私がイギリスへ行くと決めてからさっき空港で別れるまでの間、『ウィンブルドンにはいくのか』と言い続けていたからだ。

「ロンドンにずっといるんですか?」

「うん。観光でまわる以外はたぶんずっと」

「どのくらい滞在するの?」

「いちおう、予定は二ヵ月だけど、どうなるかは成り行き次第」

 とりあえず、ロンドンの語学学校に短期留学という形で入り込むつもりではいるが、まさに成り行き次第で、入国した後どうなるかは自分でも分からない。分かっていることと言えば、円の切れ目が縁の切れ目ぐらいのことだろうか。

「じゃぁ、ウィンブルドンにも遊びに来て。それまでにちゃんと観光案内できるようにしておくね。」

「ほんとに?サンク・ユー」

 彼女の名前は久美子といった。すっかり彼女と気があってしまった私は、睡眠を取ることも忘れお互いの身の上話しで盛り上がった。ついさっきまで一番興味深かったはずである右隣りの、訳ありの彼女のことなどまるで忘れてしまっていた。 もうすぐ2本目の映画が始まる。これを見終えてからゆっくりと眠ろう。ロンドン、ガドウィック空港まで、あと7時間。

 

3.暗闇に浮かぶ白い光

久美子とは空港で別れた。叔父さんが出迎えに来ていたらしい。日本を出た時よりも重く感じるトランクが『ここでは本当に一人なんだ』ということを痛感させた。

 学校側の用意してくれた寮の入室日がくるまで、私はユースホステルに滞在することにしていた。公園の中にあるユースホステルらしい。デジタル時計の文字がPM9:30を示している。外はもう暗い。地図を片手にユースホステルを探す。道を聞こうにも人通りが少ない。時計を覗くともう10:30を回っている。『大きなトランク持って、こんな時間に、それも人っ子一人通らない場所をウロウロしてたら、いいカモがいるぜとばかりに襲われてしまうぞぉ。こりゃまずい』いかにも観光客ですというスタイルだけに、いつも強気なわたしもこのときばかりは、少々弱気になった。『神よ!お助けー』とばかりに妹がくれた御守りのネックレスを握りしめる。

 「ヘィ、彼女」

きっ来た!私は聞こえない振りをして少し足早に歩いた。しかし、大荷物をもって早く歩くのには限度がある。

 「おーい。ちょっとぉー」

彼はさっきよりも大きな声で私を呼んだ。まさかそんな大きな声が聞こえないはずはない。今度は英語が分からない振りをしようとしたが『エクスキューズ・ミー』の分からない人が今時いるはずがない。私は断念し、ついに振り向いた。黒人のわりには小柄と思える男が立っていた。

 「ホテルを探してるの?」

 「うん、ユースホステルを。」

ビクビクしながら持っていた地図を差し出した。

 「あっここなら知ってるよ」

 「どうやって行けばいいのぉ?」

私はわざと海外馴れした口調で、聞き返した。道順だけ聞いてそこを立ち去るつもりだった。

 「案内してあげるよ」

暗闇の中では、あまりにも美しい彼の歯だけが白く輝いていた。『どうしたものだろう。ついて行って良いものだろうか。しかし、本当に親切心だけで案内してくれるのだとしたら、逃げるように断るのは非常に失礼だ。でも、もし…』そんなことを悶々と考えているうちに、彼は私のトランクに手を掛けていた。

 「重いねぇ」

『ふふ、そう簡単に持ってけないぜ!』と心の中で思いながら、私はいつでも走って逃げられる用意をしていた。

 家族の顔と友達の顔が浮かんでは消え浮かんでは消えた。入国一日目にして私は白い骨となって帰国するのだろうか。

 「どのくらい滞在するの?」

振り向きざまに彼は尋ねてきた。その時も、白い歯は光っていた。私の鼓動は速くなる。 

 「二ヵ月ぐらい」

 「へぇ、僕はここに来て半年になるよ。アフリカから来たんだ。」

 「えーっアフリカ?」

「うん。国には妹が一人いてね。帰りたいなぁ。アフリカに。アフリカはすばらしい国なんだ。君は日本から来たんでしょ?兄弟はいるの?」

 「うん。妹が一人」

そういいながらネックレスを握りしめた。

 ユースホステルに着くまでの間、家族のこと、国のこと、そしてロンドンのことを、彼はずっと喋り続けていた。時々、『本当にこのトランク重いよ』などと言いながら。

 ユースホステルには無事に着くことができた。彼のお陰だ。日本から一人で出て来て、大きなトランクを重そうに押し、心細そうな顔をしながら地図と睨めっこをしていた私を、かつて自分がそうだった時とだぶらせていたのかもしれない。

 お礼の代わりに、朝家を出るときポケットに詰め込んできたアラレ煎餅を、『ジャパニーズ・クラッカー』と言って彼にプレゼントした。彼はそんなものでも素直に喜んでくれた。その夜、ほんの少しでも彼を疑った自分が憎たらしくて良く眠ることができなかった。

 

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