4.コインの落ちる音と距離

 夕べ良く眠れなかったわりには、朝気持ち良く目覚めることができた。今日はポートべロ・ロードのマーケットに行くつもりだ。

 レストランで軽い朝食を済ませた後、カメラとモノクロのフィルムを何本か持ち、私はユースホステルを出た。ポケットは、無事にロンドンへ着いたことを知らせるためのコインでズッシリしている。

 夕べ案内してもらった時はとても長く感じた道が、今はやけに短く感じられた。公園が近くにある所為で、緑の匂いが強い。明け方雨が降ったらしく地面や木々が少し濡れている。雨上がりの匂いを楽しみながら歩いていると、湿った落ち葉の中に動くものを感じた。近くまで寄ってみる、野性のリスが餌を探しているのだ。とっさにポケットに手を突っ込みアラレ煎餅を探したが、中はコインに変わっていた。『昨日、なにも全部あげる必要はなかった。』と少々後悔しながら、リスが行ってしまうのを見つめていた。

 大通りに出てから、電話ボックスを探した。現在AM10:30、日本時間ではPM6:30を回っている頃だろうか。電話ボックスはすぐに見つかり私は扉を引きながら、国際電話のかけ方が書いてある紙を、コインが入っているのとは逆のポケットから、取り出した。

 1ポンドコインが3枚、50ペンスコインが10枚、20ペンスコインが10枚、ぴったり10ポンド、日本円にして約2000円分のコインを、電話機の上に並べた。20ペンスコインから入れ初めて、5ポンド分のコインをまず投入口へと差し込んだ。'ツー'というより'ズー'といったほうが良いような、日本の発信音より少し鈍い感じの音が聞こえた。

 プッシュボタンを押しながら日本とは違う発信音を密かに楽しんだ。呼び出しのベルが5回目に差しかかったとき、投入料金が提示されたスクリーンの数字が動き出した。

 電話には母親が出た。

 「亜紀だけど、無事に着いたよ」

 「あらまぁ、大丈夫だった?そっちは、やっぱり寒いの?まぁ〜ロンドンからかけてるのよねぇ〜国際電話ってお母さんはじめてだわぁー」

やけに元気がいい。スクリーンの文字はあっという間に残り3ポンドになってしまった。 「ちょっと待っててね」

受話器の向こうで妹を呼ぶ声がする。

 「もしもしぃ〜。おねーちゃん元気ぃ?私は元気だよぉ。マーケットいくんでしょ、いいなぁ」

昨日別れたばかりで元気?はないだろう。しかし、あっという間に5ポンド分のコインがなくなってしまった。コインの落ちていくあまりの早さに、日本との距離を感じる。私は、急いで電話機の上に並べてある残りのコインを入れた。

 「お父さんに変わるね」

妹は、さんざん『マーケットで何か買ってきてぇ』を連発し、父親とバトンタッチした。 

「もしもし、お父さんだ。」 そんなことは、わかっている。

 しかし、家族全員の声を耳にしたとたん、昨夜からピンと張りつめていたものがプツッと音を立てて切れた。

 何だかなつかしい気持ちが込み上げてくる。胸の奥が熱い。ずっと昔感じたことのあるような、ないような感じだ。

 私立の中学を受験して、一人で合格発表を見に行った帰り道、人通りの少ない道の電話ボックスから家で待つ両親に合格の電話をした時の、あの時のそれに似ていた。確かあの日もこんな雨のにおいがする朝だった気がする。

 父親は一人で喋り続けている。私は涙声になるのを堪えている所為で、『うん』という返事しか出来ない。

 「そろそろ、コインがなくなるから」 力を振り絞って私は言った。

 「なんだ無理するな、コレクトコールでかけてきてもいいんだぞ」

これ以上会話を続けたら、もう我慢できそうもない。そう思った私は、少し焦りながら、いつものようにぶっきらぼうな口調で言った。 「じゃぁ、次からはそうするよ。これからストリートマーケットに行くんだ。だから、またかける。」

 「そうか、気をつけてな。」

 会話はそこで終わった。受話器を置くと、コイン返却口から'ゴトン'と音がした。1ポンドコインが一枚だけもどってきた。9ポンドも一気に使ってしまったことになる。やはり、日本は遠いと感じた。

 しかし、そんなことよりも何よりも、家族の声を聞いただけで動揺してしまった自分自身に驚いていた。両親に対してコンプレックスが自分にあることは知っていし、認めてもいた。しかし、こんなことで泣けてしまうほどなのかと、大きなショックも覚えた。しばらくの間電話ボックスから出られなかった。もどってきた1ポンドコインを握ったまま、しゃがみ込んでいた。

 昨日空港で、後ろを振り向くことなく進んで行った自分はいったい何だったのだろうかと、思わず笑いが込み上げてくる。素直になれないただの強がりだったような気がして、自分自身がとても滑稽にうつる。

 自分ではすっかり自立したつもりでいた。親離れなど既に終わって、後は親のほうが子離れするだけだと、そう思っていた。でも、少し違っていた。もしかすると、私はまだ精神的な自立ができていないのかもしれない。今まで親元を離れて暮らしたことがなかった分、知らないうちに彼らに甘えていたのかもしれない。

 これは、自分にとってあまりにショックな出来事だった。電話ボックスからマーケットまでどの様にして行ったか思い出せない。おそらく地下鉄に乗ったのだろう、さっき残った1ポンドのコインが、細かくなっていた。 いつの間にか私はストリートマーケットの入口まで来ていた。マーケットには人が溢れている。この中の誰が今の私の気持ちを知ることができようか。

 カメラのフレームを覗き込みどこを狙うわけでもなく、ため息にも似た大きな深呼吸をして、私はロンドンで初めてのシャッターをきった。

 

5.新しい生活拠点

 学生寮の部屋が空いたというので、私はトランクをゴロゴロ言わせユースホステルを後にした。運び慣れたのか、昨日まであんなに重たかったトランクが今日は少し軽く感じる。 地下鉄ジュビリーラインのキルバーン駅。ここが生活の拠点となる。キルバーン・ハイロードに面した学生寮を探す。今度は迷わずたどり着けそうだ。

 「どこへ行きたいの?分かる?」

地元の親切そうなおばちゃんが声を掛けてくれる。

 「はい、大丈夫です。ありがとう」

こんな小さな気づかいが今の私にはとても嬉しい。

 "ミンスターハウス"。看板とも言えない板切れに黄色いペンキで殴り書きしてある。6連のデタッチハウスのうちの一つだ。玄関を正面にして深呼吸をする。寒いと聞いていたイギリスだが、今日はそれほどではなく、お陰で下着代わりのTシャツが少し汗で湿っている。早くダウンジャケットを脱ぎたい。 第一声は『ナイス・トゥー・ミート・ユウ』だろうなぁと思いながら、ドアに付いている呼び出しベルを押す。しばらくしてドアが開き、中年のちょっぴり太めの男性が出迎えてくれた。やはり、お決まりの挨拶を交わした後、2階にある自分の部屋ヘ案内された。

 「これが、この部屋の鍵。門限などはありません。あと、こっちがバスルーム。それから1階にはリビングルームがあります。キッチンもありますけどお湯を湧かせるくらいですね。ルームメイトになる人達はもうすぐ学校から戻ってきますから。」

 ごく簡単な説明を受け、私は自分の部屋へ荷物を運んだ。『ロンドンになるべく長く滞在するためには、少々部屋が狭くて汚くても、キッチンでお湯しか沸かせなくても、安いに越したことはないんだ。』と自分に言い聞かせ、トランクの中身を洋服ダンスに入れ替えた。 少し疲れた。シャワーでも浴びて旅の疲れを癒そう。入浴道具一式を持って私はバスルームへ向かった。蛇口をひねる。『うっ、冷たい』頭の上から冷水をかけてしまった。体全身に鳥肌がたつ。『こんなに冷たいのは始めのうちだけさ』と温かくなるのを待ったが、いつまでたっても冷たいままだ。お湯が出でこない。こんなことがあるのだろうか。まさかこのまま、ずっとお風呂に入れないのだろうか。さっきまで汗ばんでいた体が氷のように冷たくなっていく。

 前々からお湯の出が悪いというのは聞いていたが、まさか自分が生活することになったこの寮で、こんなことになるとは思ってもみなかった。さすが安ブシンだけのことはある。 シャワーを浴びることを断念した私は、早くベッドに入って眠ることにした。しかし、ベッドにも問題があった。シングル分の大きさもない。寝返りを打てば転げ落ちてしまいそうなくらいである。しかも中央部はへこんでいて腰を痛めてしまいそうだ。それでもこの際かまわない。とても疲れた、寝よう。

 何時間眠ったのだろうか、ヒーターが強くかかっていたので、喉が乾き、目が覚めた。頭の上に置いてあった腕時計を覗き込むと、すでにPM5:00を回っている。ルームメイトはまだ帰ってきていないが、1階のリビングルームが騒がしい。おそらくみんなで集まっているのだろう。私は寝起きの顔を洗い落として階段を降りていった。 リビングルームには5・6人の人たちがテレビのニュース番組を観ながら語り合っている。夕食をとっている人もいれば、英語のテキストを開きながらポテトチップをバリバリいわせている人もいた。そして、誰がどう見ても全員、日本人にはみえない。つまり、英語だけが唯一のコミュニケーションの言葉だ。私は少しびびった。なにせ、たいして英語を喋れるわけでもないのだ。相手の言っていることが50%がた理解できてそれに対して良くても40%自分の言いたいことを表現するのがやっとなのだ。もちろん、何とか生活していけるレベルの英語をだ。'孤独'という不安が私の脳裏をよぎる。

 テレビを観ていたひとりが、私に気付き声をかけてくる。少し緊張しながら今日この寮に着いたばかりだと説明する。英語の訛から言って彼女はスパニッシュだろうか、顔の作りをマジマジと観察する。随分と力強い英語訛で話しかけてくる彼女はドイツ出身かしら?力強く感じるのは彼女の体格の所為かもしれないが、とてもきれいな英語だ。この二人がどうやらルームメイトらしい。私は自己紹介を日本の英会話スクールで習った通りに完璧に済まし、今日一日の仕事を終えた。

 

6.日本の女子大生

 苦悩の日々が続く。思っていた通りにコミュニケーションが難しい。学校でも寮でも一人でいることが多い。かといって観光ついでに来ている日本の女子大生と行動を共にするつもりもさらさらない。どうせ所謂ディスコかなんかに引っ張りまわせるだけに決まっている。かといって、ブランドもののバッグを大事そうに抱えている彼女達をパンクスのクラブに連れて行くわけにもいかないだろう。

 しかし、皮のライターダースジャケットにボロボロのジーンズのいでたちが、いかにもロンドン慣れしているように見えたのだろうか、香水の匂いをプンプンさせて女子大生と思われる2人組が近寄ってきた。

 「日本の方ですか」

『チャイニーズだよ』と英語で言うつもりでいたが、しっかり日本語で『はい』と答えてしまっていた。しかもとびきりの笑顔付きで。よっぽど日本語に飢えていたのかもしれない。話の内容からして、昨日ロンドンに着いたばかりらしい。とりあえず昼食だけのつもりで私は彼女達と共に地下にある学生食堂へと降りていった。

 2ポンド70ペンスを出して私はマルガリータを注文した。そして60ペンスのカップ・オブ・ティ。チーズをのたっぷりかかったピザを頬ばりながら彼女達の話に耳を傾ける。 

 「ねぇ、さっそく今日どこか行こうよ」

 「えーっ昨日着いたばっかりなのにぃ疲れちゃったよ」

 「でもさぁ2週間しかいられないのに遊びに行かなきゃ損だよ」 

 「えー、じゃあどこに行くぅ?」

そんなような会話だ。『どこに行く?』というセリフが出たら次はこうに決まっている。 

 「あのぉ、どこかいいところ知りませんか」

困った。私のいいところと彼女達のいいところとではあまりの差がありすぎる。

 「どんな所がいいの?」

一応、訪ねてみる。

 「ガイドブックはチェックしたんですけどぉ、そうゆうのに載ってるお店って観光客ばっかりなんだもん。ロンドンに来た意味ないしぃ」

 「せっかくだからパンクのライブもみてみたいよねぇ」

観光客が行かないパンクのクラブだとぉー!そんな何があるかわからない所にブランドもののバッグを持っていくつもりなのかい、おねーさん方。それに私だってロンドンは初めてなのだ。地元の子しか行かないような所を知っているわけない。たとえ知っていても君たちと行くつもりはないぞぉ。

 討議の結果、ごく一般的な、ロックバンドの生演奏を聞きながら踊れるクラブに行くことに決まったらしい。なぜか私もそのメンバーに入っている。何度か行ったこともあってなかなか気に入っていたクラブだったので、今日のところは彼女達に付き合うことにした。 待ち合わせは夜の9:30、クラブの前。私は夕食を近くのベイクドポテトショップで済ますため、30分早くクラブのある駅に着いた。繁華街だけあって人通りが激しい。彼女達2人はまだ来ていない。重たいトランクを押しながら怖々夜道を歩いていた自分が嘘のように堂々としたものだ。

 ベイクドポテトショップのポテトは大きい。ポテト一つで一食分を満たすのに十分な大きさだ。しっかり腹ごしらえをした私は、カップ・オブ・ティを片手に持ちながらクラブの前で二人を待った。

 10:00を過ぎた。まだ2人はやってこない。どうせバッチリ着飾ってくるのに時間がかかっているのだろう。待たされることをたいして苦と感じない私は、人間ウォッチングをしながらのんびりと待ちぼうけを楽しんでいた。

 12、3歳だろうか、男の子が一人、ボロボロになった毛布にくるまり、すでに閉店したコーヒーショップの前に座り込んでいた。ホームレスチャイルドだ。小銭を恵んでもらおうと、通りすがりの人たちに呼びかけている。

 イギリスに来て思った。日本は裕福な国である。日本にもホームレスはいるが、『中には本当に家がないのではなく、ただの趣味としていわゆる浮浪者をしている人達も少なくない』という話も聞く。最近は、リストラだ倒産だといろいろあるようだか、子供のホームレスというのはそうないのではないだろうか。

 つまり日本で言えば、一般的な水準で生活をしている私たちと、ホームレスとの間には現実と非現実、もしくは、物質的社会生活と精神的非社会生活の関係が成り立っている。 しかし、ここイギリスでは、ホームレスの人々も現実の生活や社会の一部として存在しているのだ。

 少年は通る人々に声をかけ続けている。小銭がずいぶんたまったのだろうか、たまに嬉しそうな顔をする。ふっと横に目をやると、もう一人同じ背格好の少年がホームレスの少年の目の前にあるベンチに腰かけている。人通りがまばらになった頃、二人が会話をし始めた。

 「おい、いくらたまった?」

 「15ポンド24ペンス」

 「やったな!」

 小銭を数える少年の顔から、さっきまであった弱者の表情が消えていた。『本物のホームレスではない』直感的にそう感じた。どうやらちょっとしたお遊びのようだ。これには私も参った。親にはどんな教育をされたのだろうかと、考えざるをえない。握りしめていた50ペンスコインをポケットにもどし、私は時計を覗いた。

 PM10:15、もうそんな時間になっている。女子大生2人組はまだこない。何かあったのだろうか、少し心配になり、電話をかけようとしたが、どちらのホームステイ先も聞いていない。10:30まで待つことにした。そして10:30。いくら待つことを苦に思わない私でも、今日知り逢ったばかりの相手を1時間以上待つつもりもなく、いい加減腹も立ってきた私は、それから真っ直ぐ寮にもどりさっさと眠ってしまった。

 『昨日はいったいどうしたのか』と一人に聞いてみた。ホームステイ先の家族が、パーティーを開いてくれたので主役が抜け出すわけにはいかなかったという。そして、参ってしまったのはもう一人の理由だ。片割れが、パーティーで行けなくなり、実は怖くて一人きりで地下鉄に乗れなかったらしいのだ。

 夜の9:00、人通りが多い場所がそんなに怖いと言うのだろうか、私も夜、出掛けるようになった直後は基本的に一人ということもあってビクビクしていた。しかし人に迷惑をかけるようなことは避けてきたし、それに、私からすれば、午前1:00や2:00まで日本の繁華街をフラフラしている方が数倍危険なのではないかと思う。日本だろうがイギリスだろうが危険なときは危険なのだ。・・・・・・・怒る気力もなかった。

 彼女達は最後まで私に反省の表情を見せることもなく『またいつか逢おうね』と言葉を残し、日本に帰って行った。私は『もう二度と会うことはないだろう』と心で思いながら、笑顔で二人に手を振った。

 

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