1.出発の日 

 これから冬になるというのに、私"小泉亜紀"は、イギリスへ行こうとしている。なにせ初めてのイギリスであるから、果たしてどのくらい寒いのかもわからない。旅行用トランクの中はほとんど洋服だ。自分の体重の3分の1はあるだろうそのトランクとカメラ2台、モノクロ、カラー合わせて50本以上のフィルム。とりあえず荷物はそんなものだ。ああ、忘れてはいけない、妹にもらった御守りのネックレス。これはいつも身に付けていよう。 

 短大を卒業して広告制作会社に通い始め、まだ間もない頃、私は朝のラッシュが嫌いだった。中でも、地下鉄の乗り換え通路を歩くときが、痴漢にあうときよりも何よりも私は嫌いだった。自分の意志がまるでないかのように無表情で、ひたすら仕事場へ足を運ぶビジネスマン、香水の匂いをプンプンさせてツカツカ歩くOLや女子大生。足音の波に自分の意志がかき消されてしまいそうな気がした。ザッザッザッという兵隊の行進のような足音が、地下の長い通路にこだまして、2倍にも3倍にも聞こえてきた。自分の足音が聞こえない。このままここに居たら駄目になる、本物の自分が消されてゆく、そう思った。 

 トランクの車の音が鳴り響く南ウィングに私はいる。地下鉄の乗り換え通路のように人が溢れている。まるでロボット達がひしめきあっているようにも感じられた。トランクのゴロゴロゴロという猫撫で声の様な車の音が、ホールにこだまする。誰もが自分の足音を一歩づつ確かめながら進んでいく。

「もうここでいいよ」

エスカレーターの下にまで見送りに来ようとする家族達に、私はぶっきらぼうに言った。 

「せっかくだから下まで行くよ」

 いつまでたっても心配性の親にため息がでた。(心配してくれているのはとてもありがたいのだが)ドラマのように後ろを振り向かず手を振ってエスカレーターに足を掛け、かっこよく消えて行くはずだったのに。 しかし、そうしたかったなんてこと決して言うべきではない。なぜなら、『それなら最初からやろう!家族一人一人に抱き付いて別れを惜しむ所からだ』とでも言い兼ねない、そうゆう家族なのだ。

 結局、出国カウンターのホールまで彼らは付いてきた。そろそろ恥ずかしくなってきた私は、他人の振りをしてスタスタと歩いていた。彼らはまだ大きく手を振っているらしい。出国のスタンプを押してもらった瞬間から、浮き足立った様な気持ちになった。彼らの姿はもう見えない。

カメラと、何本かのフィルムだけが入っているDAYバッグを軽やかに背負い、ズンズンと私は、機内へ乗り込んでいった。

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2.訳ありの女

 私の右隣りに20代半ばにさしかかろうとしている女性が座っている。容姿は良くもなく、悪くもなく、しかしどこか影のある感じを漂わせている。せっかくサービスでやっている機内シアターも見ず、オトコと一緒に撮った写真を眺めながら、ウォークマンで(たぶん)思い出の曲なんかを聴いたりして一人浸っているのだ。

 『訳ありっぽくて興味あるかも』と思いつつ私は映画を必死に見続ける。タダで2本も映画が見られる、それもビデオが出てからとケチってまだ見ていなかったもの。逃す手はない。

 写真を見終わるや否や、訳ありの彼女は、A4サイズほどの大きなスケジュール帳を取り出し、何やら書き始めた。映画に集中しようと思いつつも、『覗きたい!!』やじ馬の血が騒ぐ。その瞬間、すでに私は覗き込んでいた。

【今日はケンちゃんと何も喋れなかった。】

これはもしや、独りよがりの日記ではないか!私の胸は興味の心でいっぱいになった。

【…他の子とばかり話してて私とは全然話してくれないの。意地悪してるのかなぁケンちゃんのバーカ。知らないから。】

なるほど、彼女は片思い。ドラマの舞台はどうやらアルバイト先らしい。よくあるパターンの恋愛だ。まぁ、二人きりで写っている写真があるということは、いちおう彼女の気持ちはケンちゃんとやらに伝わっているのだろう。しかし、よくもまぁこんな丸っこくて良く分からない文字をサラサラと書けるものだ。しかも良く見てみると、日付は2週間前。日記というのはその日に書くものではなかったかしら?私は少し背筋を伸ばし、シートにピッタリと腰をつけ、流し目の状態で彼女の日記帳を覗き込み続けた。

 おやっ、日付が変わったようである。

【今日はケンちゃんと話しをしました。ロンドンに行くことを話したけれどあまり関心を示してくれませんでした。やっぱりケンちゃんのイメージにはニューヨークのほうが似合ってるのかなぁ。でもお土産はいっぱい買ってこようっと】

 ケンちゃんという名の彼は、どうやら彼女に興味がないらしい。彼女のほうは、自分ではなく、ロンドンに対して興味がないものだと考えているようだ。愛は盲目、ロンドンだろうが、ニューヨークだろうが、自分が惚れている女であれば、一人きりで海外に行こうとしているその場所に対して興味を持たない訳がない。何年も付き合っていて馴れ合いになっている二人ならまだしも。

 彼女にとってロンドンへの一人旅が、片思いの彼への最大の自己アピールだったのであろう。『一人きりで行くなんて、かっこいいよなぁ。でも、気をつけろよな。』そして、彼女はきっとこれに続く、乙女心を震わせるような甘い言葉を待っていたに違いない。ケナゲである。

 私にこんなことを思われているとも知らず、彼女はひたすら丸文字で書き続ける。

【悪口ばっかり書いたけど、やっぱりケンちゃん大好き!】

ああ、乙女心と霧の街。

 一本目の映画が終わりに近づいた頃、すこし眠たくなっていた。周りを見回すと、ほとんどの乗客が眠りについている。2本目の映画が始まるまで1時間ほどある、少し眠ろう。 毛布を取ろうとしてシートから立ち上がった私に気づき、左隣りに座っていた彼女がすっと立ち上がった。今年20歳になる程であろう彼女は、腕を伸ばし私のために毛布を取ってくれた。

「どうも、すみません。ありがとう」

ごく一般的ないかにも日本人らしいお礼の言葉を述べた後、私は毛布を受け取った。

「一人ですか?」

彼女は親しみを込めて私に尋ねてきた。

「ええ、まぁ。あなたも?」

「はい。でもウィンブルドンの方に叔父さんが住んでいるから、そこに一ヵ月だけ居候させてもらうんです。だから一人旅は今だけかも。」 

「へぇ。ウィンブルドンに住んでるんだぁ。良いところでしょ、きっと」

 そう言いながらも私は、父親のことを考えざるをえなかった。テニス好きの彼は、私がイギリスへ行くと決めてからさっき空港で別れるまでの間、『ウィンブルドンにはいくのか』と言い続けていたからだ。

「ロンドンにずっといるんですか?」

「うん。観光でまわる以外はたぶんずっと」

「どのくらい滞在するの?」

「いちおう、予定は二ヵ月だけど、どうなるかは成り行き次第」

 とりあえず、ロンドンの語学学校に短期留学という形で入り込むつもりではいるが、まさに成り行き次第で、入国した後どうなるかは自分でも分からない。分かっていることと言えば、円の切れ目が縁の切れ目ぐらいのことだろうか。

「じゃぁ、ウィンブルドンにも遊びに来て。それまでにちゃんと観光案内できるようにしておくね。」

「ほんとに?サンク・ユー」

 彼女の名前は久美子といった。すっかり彼女と気があってしまった私は、睡眠を取ることも忘れお互いの身の上話しで盛り上がった。ついさっきまで一番興味深かったはずである右隣りの、訳ありの彼女のことなどまるで忘れてしまっていた。 もうすぐ2本目の映画が始まる。これを見終えてからゆっくりと眠ろう。ロンドン、ガドウィック空港まで、あと7時間。

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3.暗闇に浮かぶ白い光

久美子とは空港で別れた。叔父さんが出迎えに来ていたらしい。日本を出た時よりも重く感じるトランクが『ここでは本当に一人なんだ』ということを痛感させた。

 学校側の用意してくれた寮の入室日がくるまで、私はユースホステルに滞在することにしていた。公園の中にあるユースホステルらしい。デジタル時計の文字がPM9:30を示している。外はもう暗い。地図を片手にユースホステルを探す。道を聞こうにも人通りが少ない。時計を覗くともう10:30を回っている。『大きなトランク持って、こんな時間に、それも人っ子一人通らない場所をウロウロしてたら、いいカモがいるぜとばかりに襲われてしまうぞぉ。こりゃまずい』いかにも観光客ですというスタイルだけに、いつも強気なわたしもこのときばかりは、少々弱気になった。『神よ!お助けー』とばかりに妹がくれた御守りのネックレスを握りしめる。

 「ヘィ、彼女」

きっ来た!私は聞こえない振りをして少し足早に歩いた。しかし、大荷物をもって早く歩くのには限度がある。

 「おーい。ちょっとぉー」

彼はさっきよりも大きな声で私を呼んだ。まさかそんな大きな声が聞こえないはずはない。今度は英語が分からない振りをしようとしたが『エクスキューズ・ミー』の分からない人が今時いるはずがない。私は断念し、ついに振り向いた。黒人のわりには小柄と思える男が立っていた。

 「ホテルを探してるの?」

 「うん、ユースホステルを。」

ビクビクしながら持っていた地図を差し出した。

 「あっここなら知ってるよ」

 「どうやって行けばいいのぉ?」

私はわざと海外馴れした口調で、聞き返した。道順だけ聞いてそこを立ち去るつもりだった。

 「案内してあげるよ」

暗闇の中では、あまりにも美しい彼の歯だけが白く輝いていた。『どうしたものだろう。ついて行って良いものだろうか。しかし、本当に親切心だけで案内してくれるのだとしたら、逃げるように断るのは非常に失礼だ。でも、もし…』そんなことを悶々と考えているうちに、彼は私のトランクに手を掛けていた。

 「重いねぇ」

『ふふ、そう簡単に持ってけないぜ!』と心の中で思いながら、私はいつでも走って逃げられる用意をしていた。

 家族の顔と友達の顔が浮かんでは消え浮かんでは消えた。入国一日目にして私は白い骨となって帰国するのだろうか。

 「どのくらい滞在するの?」

振り向きざまに彼は尋ねてきた。その時も、白い歯は光っていた。私の鼓動は速くなる。 

 「二ヵ月ぐらい」

 「へぇ、僕はここに来て半年になるよ。アフリカから来たんだ。」

 「えーっアフリカ?」

「うん。国には妹が一人いてね。帰りたいなぁ。アフリカに。アフリカはすばらしい国なんだ。君は日本から来たんでしょ?兄弟はいるの?」

 「うん。妹が一人」

そういいながらネックレスを握りしめた。

 ユースホステルに着くまでの間、家族のこと、国のこと、そしてロンドンのことを、彼はずっと喋り続けていた。時々、『本当にこのトランク重いよ』などと言いながら。

 ユースホステルには無事に着くことができた。彼のお陰だ。日本から一人で出て来て、大きなトランクを重そうに押し、心細そうな顔をしながら地図と睨めっこをしていた私を、かつて自分がそうだった時とだぶらせていたのかもしれない。

 お礼の代わりに、朝家を出るときポケットに詰め込んできたアラレ煎餅を、『ジャパニーズ・クラッカー』と言って彼にプレゼントした。彼はそんなものでも素直に喜んでくれた。その夜、ほんの少しでも彼を疑った自分が憎たらしくて良く眠ることができなかった。

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4.コインの落ちる音と距離

 夕べ良く眠れなかったわりには、朝気持ち良く目覚めることができた。今日はポートべロ・ロードのマーケットに行くつもりだ。

 レストランで軽い朝食を済ませた後、カメラとモノクロのフィルムを何本か持ち、私はユースホステルを出た。ポケットは、無事にロンドンへ着いたことを知らせるためのコインでズッシリしている。

 夕べ案内してもらった時はとても長く感じた道が、今はやけに短く感じられた。公園が近くにある所為で、緑の匂いが強い。明け方雨が降ったらしく地面や木々が少し濡れている。雨上がりの匂いを楽しみながら歩いていると、湿った落ち葉の中に動くものを感じた。近くまで寄ってみる、野性のリスが餌を探しているのだ。とっさにポケットに手を突っ込みアラレ煎餅を探したが、中はコインに変わっていた。『昨日、なにも全部あげる必要はなかった。』と少々後悔しながら、リスが行ってしまうのを見つめていた。

 大通りに出てから、電話ボックスを探した。現在AM10:30、日本時間ではPM6:30を回っている頃だろうか。電話ボックスはすぐに見つかり私は扉を引きながら、国際電話のかけ方が書いてある紙を、コインが入っているのとは逆のポケットから、取り出した。

 1ポンドコインが3枚、50ペンスコインが10枚、20ペンスコインが10枚、ぴったり10ポンド、日本円にして約2000円分のコインを、電話機の上に並べた。20ペンスコインから入れ初めて、5ポンド分のコインをまず投入口へと差し込んだ。'ツー'というより'ズー'といったほうが良いような、日本の発信音より少し鈍い感じの音が聞こえた。

 プッシュボタンを押しながら日本とは違う発信音を密かに楽しんだ。呼び出しのベルが5回目に差しかかったとき、投入料金が提示されたスクリーンの数字が動き出した。

 電話には母親が出た。

 「亜紀だけど、無事に着いたよ」

 「あらまぁ、大丈夫だった?そっちは、やっぱり寒いの?まぁ〜ロンドンからかけてるのよねぇ〜国際電話ってお母さんはじめてだわぁー」

やけに元気がいい。スクリーンの文字はあっという間に残り3ポンドになってしまった。 「ちょっと待っててね」

受話器の向こうで妹を呼ぶ声がする。

 「もしもしぃ〜。おねーちゃん元気ぃ?私は元気だよぉ。マーケットいくんでしょ、いいなぁ」

昨日別れたばかりで元気?はないだろう。しかし、あっという間に5ポンド分のコインがなくなってしまった。コインの落ちていくあまりの早さに、日本との距離を感じる。私は、急いで電話機の上に並べてある残りのコインを入れた。

 「お父さんに変わるね」

妹は、さんざん『マーケットで何か買ってきてぇ』を連発し、父親とバトンタッチした。 

「もしもし、お父さんだ。」

そんなことは、わかっている。

 しかし、家族全員の声を耳にしたとたん、昨夜からピンと張りつめていたものがプツッと音を立てて切れた。

 何だかなつかしい気持ちが込み上げてくる。胸の奥が熱い。ずっと昔感じたことのあるような、ないような感じだ。

 私立の中学を受験して、一人で合格発表を見に行った帰り道、人通りの少ない道の電話ボックスから家で待つ両親に合格の電話をした時の、あの時のそれに似ていた。確かあの日もこんな雨のにおいがする朝だった気がする。

 父親は一人で喋り続けている。私は涙声になるのを堪えている所為で、『うん』という返事しか出来ない。

 「そろそろ、コインがなくなるから」

力を振り絞って私は言った。

 「なんだ無理するな、コレクトコールでかけてきてもいいんだぞ」

これ以上会話を続けたら、もう我慢できそうもない。そう思った私は、少し焦りながら、いつものようにぶっきらぼうな口調で言った。 「じゃぁ、次からはそうするよ。これからストリートマーケットに行くんだ。だから、またかける。」

 「そうか、気をつけてな。」

 会話はそこで終わった。受話器を置くと、コイン返却口から'ゴトン'と音がした。1ポンドコインが一枚だけもどってきた。9ポンドも一気に使ってしまったことになる。やはり、日本は遠いと感じた。

 しかし、そんなことよりも何よりも、家族の声を聞いただけで動揺してしまった自分自身に驚いていた。両親に対してコンプレックスが自分にあることは知っていし、認めてもいた。しかし、こんなことで泣けてしまうほどなのかと、大きなショックも覚えた。しばらくの間電話ボックスから出られなかった。もどってきた1ポンドコインを握ったまま、しゃがみ込んでいた。

 昨日空港で、後ろを振り向くことなく進んで行った自分はいったい何だったのだろうかと、思わず笑いが込み上げてくる。素直になれないただの強がりだったような気がして、自分自身がとても滑稽にうつる。

 自分ではすっかり自立したつもりでいた。親離れなど既に終わって、後は親のほうが子離れするだけだと、そう思っていた。でも、少し違っていた。もしかすると、私はまだ精神的な自立ができていないのかもしれない。今まで親元を離れて暮らしたことがなかった分、知らないうちに彼らに甘えていたのかもしれない。

 これは、自分にとってあまりにショックな出来事だった。電話ボックスからマーケットまでどの様にして行ったか思い出せない。おそらく地下鉄に乗ったのだろう、さっき残った1ポンドのコインが、細かくなっていた。 いつの間にか私はストリートマーケットの入口まで来ていた。マーケットには人が溢れている。この中の誰が今の私の気持ちを知ることができようか。

 カメラのフレームを覗き込みどこを狙うわけでもなく、ため息にも似た大きな深呼吸をして、私はロンドンで初めてのシャッターをきった。

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5.新しい生活拠点

 学生寮の部屋が空いたというので、私はトランクをゴロゴロ言わせユースホステルを後にした。運び慣れたのか、昨日まであんなに重たかったトランクが今日は少し軽く感じる。 地下鉄ジュビリーラインのキルバーン駅。ここが生活の拠点となる。キルバーン・ハイロードに面した学生寮を探す。今度は迷わずたどり着けそうだ。

 「どこへ行きたいの?分かる?」

地元の親切そうなおばちゃんが声を掛けてくれる。

 「はい、大丈夫です。ありがとう」

こんな小さな気づかいが今の私にはとても嬉しい。

 "ミンスターハウス"。看板とも言えない板切れに黄色いペンキで殴り書きしてある。6連のデタッチハウスのうちの一つだ。玄関を正面にして深呼吸をする。寒いと聞いていたイギリスだが、今日はそれほどではなく、お陰で下着代わりのTシャツが少し汗で湿っている。早くダウンジャケットを脱ぎたい。 第一声は『ナイス・トゥー・ミート・ユウ』だろうなぁと思いながら、ドアに付いている呼び出しベルを押す。しばらくしてドアが開き、中年のちょっぴり太めの男性が出迎えてくれた。やはり、お決まりの挨拶を交わした後、2階にある自分の部屋ヘ案内された。

 「これが、この部屋の鍵。門限などはありません。あと、こっちがバスルーム。それから1階にはリビングルームがあります。キッチンもありますけどお湯を湧かせるくらいですね。ルームメイトになる人達はもうすぐ学校から戻ってきますから。」

 ごく簡単な説明を受け、私は自分の部屋へ荷物を運んだ。『ロンドンになるべく長く滞在するためには、少々部屋が狭くて汚くても、キッチンでお湯しか沸かせなくても、安いに越したことはないんだ。』と自分に言い聞かせ、トランクの中身を洋服ダンスに入れ替えた。 少し疲れた。シャワーでも浴びて旅の疲れを癒そう。入浴道具一式を持って私はバスルームへ向かった。蛇口をひねる。『うっ、冷たい』頭の上から冷水をかけてしまった。体全身に鳥肌がたつ。『こんなに冷たいのは始めのうちだけさ』と温かくなるのを待ったが、いつまでたっても冷たいままだ。お湯が出でこない。こんなことがあるのだろうか。まさかこのまま、ずっとお風呂に入れないのだろうか。さっきまで汗ばんでいた体が氷のように冷たくなっていく。

 前々からお湯の出が悪いというのは聞いていたが、まさか自分が生活することになったこの寮で、こんなことになるとは思ってもみなかった。さすが安ブシンだけのことはある。 シャワーを浴びることを断念した私は、早くベッドに入って眠ることにした。しかし、ベッドにも問題があった。シングル分の大きさもない。寝返りを打てば転げ落ちてしまいそうなくらいである。しかも中央部はへこんでいて腰を痛めてしまいそうだ。それでもこの際かまわない。とても疲れた、寝よう。

 何時間眠ったのだろうか、ヒーターが強くかかっていたので、喉が乾き、目が覚めた。頭の上に置いてあった腕時計を覗き込むと、すでにPM5:00を回っている。ルームメイトはまだ帰ってきていないが、1階のリビングルームが騒がしい。おそらくみんなで集まっているのだろう。私は寝起きの顔を洗い落として階段を降りていった。 リビングルームには5・6人の人たちがテレビのニュース番組を観ながら語り合っている。夕食をとっている人もいれば、英語のテキストを開きながらポテトチップをバリバリいわせている人もいた。そして、誰がどう見ても全員、日本人にはみえない。つまり、英語だけが唯一のコミュニケーションの言葉だ。私は少しびびった。なにせ、たいして英語を喋れるわけでもないのだ。相手の言っていることが50%がた理解できてそれに対して良くても40%自分の言いたいことを表現するのがやっとなのだ。もちろん、何とか生活していけるレベルの英語をだ。'孤独'という不安が私の脳裏をよぎる。

 テレビを観ていたひとりが、私に気付き声をかけてくる。少し緊張しながら今日この寮に着いたばかりだと説明する。英語の訛から言って彼女はスパニッシュだろうか、顔の作りをマジマジと観察する。随分と力強い英語訛で話しかけてくる彼女はドイツ出身かしら?力強く感じるのは彼女の体格の所為かもしれないが、とてもきれいな英語だ。この二人がどうやらルームメイトらしい。私は自己紹介を日本の英会話スクールで習った通りに完璧に済まし、今日一日の仕事を終えた。

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6.日本の女子大生

 苦悩の日々が続く。思っていた通りにコミュニケーションが難しい。学校でも寮でも一人でいることが多い。かといって観光ついでに来ている日本の女子大生と行動を共にするつもりもさらさらない。どうせ所謂ディスコかなんかに引っ張りまわせるだけに決まっている。かといって、ブランドもののバッグを大事そうに抱えている彼女達をパンクスのクラブに連れて行くわけにもいかないだろう。

 しかし、皮のライターダースジャケットにボロボロのジーンズのいでたちが、いかにもロンドン慣れしているように見えたのだろうか、香水の匂いをプンプンさせて女子大生と思われる2人組が近寄ってきた。

 「日本の方ですか」

『チャイニーズだよ』と英語で言うつもりでいたが、しっかり日本語で『はい』と答えてしまっていた。しかもとびきりの笑顔付きで。よっぽど日本語に飢えていたのかもしれない。話の内容からして、昨日ロンドンに着いたばかりらしい。とりあえず昼食だけのつもりで私は彼女達と共に地下にある学生食堂へと降りていった。

 2ポンド70ペンスを出して私はマルガリータを注文した。そして60ペンスのカップ・オブ・ティ。チーズをのたっぷりかかったピザを頬ばりながら彼女達の話に耳を傾ける。 

 「ねぇ、さっそく今日どこか行こうよ」

 「えーっ昨日着いたばっかりなのにぃ疲れちゃったよ」

 「でもさぁ2週間しかいられないのに遊びに行かなきゃ損だよ」 

 「えー、じゃあどこに行くぅ?」

そんなような会話だ。『どこに行く?』というセリフが出たら次はこうに決まっている。 

 「あのぉ、どこかいいところ知りませんか」

困った。私のいいところと彼女達のいいところとではあまりの差がありすぎる。

 「どんな所がいいの?」

一応、訪ねてみる。

 「ガイドブックはチェックしたんですけどぉ、そうゆうのに載ってるお店って観光客ばっかりなんだもん。ロンドンに来た意味ないしぃ」

 「せっかくだからパンクのライブもみてみたいよねぇ」

観光客が行かないパンクのクラブだとぉー!そんな何があるかわからない所にブランドもののバッグを持っていくつもりなのかい、おねーさん方。それに私だってロンドンは初めてなのだ。地元の子しか行かないような所を知っているわけない。たとえ知っていても君たちと行くつもりはないぞぉ。

 討議の結果、ごく一般的な、ロックバンドの生演奏を聞きながら踊れるクラブに行くことに決まったらしい。なぜか私もそのメンバーに入っている。何度か行ったこともあってなかなか気に入っていたクラブだったので、今日のところは彼女達に付き合うことにした。 待ち合わせは夜の9:30、クラブの前。私は夕食を近くのベイクドポテトショップで済ますため、30分早くクラブのある駅に着いた。繁華街だけあって人通りが激しい。彼女達2人はまだ来ていない。重たいトランクを押しながら怖々夜道を歩いていた自分が嘘のように堂々としたものだ。

 ベイクドポテトショップのポテトは大きい。ポテト一つで一食分を満たすのに十分な大きさだ。しっかり腹ごしらえをした私は、カップ・オブ・ティを片手に持ちながらクラブの前で二人を待った。

 10:00を過ぎた。まだ2人はやってこない。どうせバッチリ着飾ってくるのに時間がかかっているのだろう。待たされることをたいして苦と感じない私は、人間ウォッチングをしながらのんびりと待ちぼうけを楽しんでいた。

 12、3歳だろうか、男の子が一人、ボロボロになった毛布にくるまり、すでに閉店したコーヒーショップの前に座り込んでいた。ホームレスチャイルドだ。小銭を恵んでもらおうと、通りすがりの人たちに呼びかけている。

 イギリスに来て思った。日本は裕福な国である。日本にもホームレスはいるが、『中には本当に家がないのではなく、ただの趣味としていわゆる浮浪者をしている人達も少なくない』という話も聞く。最近は、リストラだ倒産だといろいろあるようだか、子供のホームレスというのはそうないのではないだろうか。

 つまり日本で言えば、一般的な水準で生活をしている私たちと、ホームレスとの間には現実と非現実、もしくは、物質的社会生活と精神的非社会生活の関係が成り立っている。 しかし、ここイギリスでは、ホームレスの人々も現実の生活や社会の一部として存在しているのだ。

 少年は通る人々に声をかけ続けている。小銭がずいぶんたまったのだろうか、たまに嬉しそうな顔をする。ふっと横に目をやると、もう一人同じ背格好の少年がホームレスの少年の目の前にあるベンチに腰かけている。人通りがまばらになった頃、二人が会話をし始めた。

 「おい、いくらたまった?」

 「15ポンド24ペンス」

 「やったな!」

 小銭を数える少年の顔から、さっきまであった弱者の表情が消えていた。『本物のホームレスではない』直感的にそう感じた。どうやらちょっとしたお遊びのようだ。これには私も参った。親にはどんな教育をされたのだろうかと、考えざるをえない。握りしめていた50ペンスコインをポケットにもどし、私は時計を覗いた。

 PM10:15、もうそんな時間になっている。女子大生2人組はまだこない。何かあったのだろうか、少し心配になり、電話をかけようとしたが、どちらのホームステイ先も聞いていない。10:30まで待つことにした。そして10:30。いくら待つことを苦に思わない私でも、今日知り逢ったばかりの相手を1時間以上待つつもりもなく、いい加減腹も立ってきた私は、それから真っ直ぐ寮にもどりさっさと眠ってしまった。

 『昨日はいったいどうしたのか』と一人に聞いてみた。ホームステイ先の家族が、パーティーを開いてくれたので主役が抜け出すわけにはいかなかったという。そして、参ってしまったのはもう一人の理由だ。片割れが、パーティーで行けなくなり、実は怖くて一人きりで地下鉄に乗れなかったらしいのだ。

 夜の9:00、人通りが多い場所がそんなに怖いと言うのだろうか、私も夜、出掛けるようになった直後は基本的に一人ということもあってビクビクしていた。しかし人に迷惑をかけるようなことは避けてきたし、それに、私からすれば、午前1:00や2:00まで日本の繁華街をフラフラしている方が数倍危険なのではないかと思う。日本だろうがイギリスだろうが危険なときは危険なのだ。・・・・・・・怒る気力もなかった。

 彼女達は最後まで私に反省の表情を見せることもなく『またいつか逢おうね』と言葉を残し、日本に帰って行った。私は『もう二度と会うことはないだろう』と心で思いながら、笑顔で二人に手を振った。

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7.マイ・バースデー

 今日はバースデープレゼントを買いに行く。自分自身へのプレゼントだ。今日で22歳になる。もちろん行き先は最も気に入っているストリートマーケット、ポートベロロードだ。 プレゼント捜しに熱中するため、今日はカメラを持っていない。ダウンジャケットの内ポケットに財布を、ジーンズの前ポケットにいくらかの小銭を入れただけの、いたって身軽ないでたちを、ショーウィンドーの前を通るたびに私は横目で確認しながら、人込みの中を歩いた。

 4、5時間ウロウロしただろうか、足はくたくただ。自分へのプレゼントはまだ見付からない。

 お腹が空いてきた。そういえば今日はまだ何も口にしていないことを思い出し、フィッシュ・アンド・チップスのお店に足を運んだ。所謂、白身魚のフライとフライドポテトなのだが、ここの店の量と来たらすごい。一般的に言っても、イギリスのレストランなり、屋台なりは、日本と比べてずいぶんと量が多いというのに、それに加えてこの店は桁違いだ。フィッシュにしても全長20シはあるだろう魚丸々一匹分、チップスだって並みサイズのポテト2個分の量はしっかりある。約30分かけ、ペリエを片手に私は全てをたいらげた。 少し重たくなったお腹をさすりながら店を出た私は、プレゼントを捜すことに頭を切り替えた。それから2時間、そろそろ日が暮れる。冬はとても日が短い。寒さも増してきた、もう寮にもどろうか。疲れた足を重たげに上げながら、私はその帰り道でもプレゼントを捜し続けた。

 「ジャップ!」

浮浪者が私にやじを飛ばす。『ファック!』と、お決まりの文句を言ってやろうと思った。しかし、テイーンエイジャーの不良達なら仲良くなってしまえとも思うが、気合いの入った浮浪者は何をしでかすか分からないので、とりあえず心の中だけで叫んでおいた。といっても、おそらくその時の私は、やじを飛ばした浮浪者に対してだけでなく、プレゼントの見付からない苛立ちに対して叫んでいたのかもしれない。

 結局、プレゼントは見付からなかった。寮へもどり疲れ果てた私は、すぐベッドへ潜り込んでしまった。何となく淋しいままの気持ちで、部屋の中を何気なく見渡した。相変わらずワット数の低い豆電球の光、その光に照らされたテーブルには、枯れかかったカーネーション。そう、ずいぶん長い間飾られている枯れかかった?どうやら花は枯れていない。私はベッドから飛び起き、テーブルの上を良く見た。"Happy Birthday Dear AKI"そう書かれたメッセージカードとブーケがそこにはあった。明らかに私へのブーケだ。ドアの外で声がした。ノックの音、そして、開いたドアからみんなの歌うバースデーソング。たどたどしい日本語で 「オ・タ・ン・ジョ・ウ・ビ、オメデト」。 自分の英語力が足らずに、今まであまり話も出来ずにいたにもかかわらず、寮のみんなが私のバースデーを祝ってくれたのだ。まるで青春ドラマのような展開に私は少し戸惑った。しかし、戸惑いながらも私は嬉しい気持ちでいっぱいだった。とても暖かかった。窓の外のいつからか降りだした雪のことなど、気が付かないでいられる程の、暖かい冬のバースデープレゼントだった。

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8.秘密の森へ

 ベッドの横にはバースデープレゼントにもらったブーケがドライフラワーにして飾ってある。今日はウィンブルドンへ遊びに行く予定だ。航空機内で知り合った"久美子"に会いに行く。いつものようにカメラと何本かのフィルムを持ち私はサッソウと部屋を出た。 22歳になって初めてのシャッターを何処で切ろうかと地下鉄に揺られながら私はワクワク考えているうちに、ウィンブルドンの駅に着いた。ここで久美子と落ち合う約束だ。 

「亜紀ちゃん!」

私を呼ぶ声がする。久美子が既に到着していた。

 「久美子ちゃん今日は何処に連れて行ってくれるの」

 期待に満ちた顔で私が言うと、久美子はもったいぶった声で言い返した。

 「まず、秘密の森に行くの。」

 「秘密の森?何それ」

 「ふっふっふ、一度迷ったら二度と生きて戻ってこれない森なんだって」

 二度と生きて帰れないとは大げさな言い方だが、今までにもこの敷地に入り、迷って帰れなくる人がいるらしい。実際のところ、ゴルフコースがあったり、ジョギングしている人がいたりと、ただの広い公園であると言ったほうが正解かもしれないのだが、その広さも馬鹿にできない、まさに"森"なのである。

 私たちは、人間の通る道を確実に歩きながら、第一の目的地へ到着した。 まるでオランダにワープして来たようだ。小振りではあるが、風車小屋の見えるその風景は、ロンドンの街中では決して見ることは出来ないだろう空気の透き通った空間だった。 久美子と私はここで何枚かの写真を撮った。カメラは久美子の持ってきたコンパクトカメラを使って撮影した。私たちは交互にお互いの写真を撮った。

私のカメラではまだシャッターを切っていない。どこで22歳最初のシャッターを切るか決めかねている。

 「亜紀ちゃんてどんな写真撮るの」

 「モノクロのアート写真が一番好きだな」私が自分のカメラのフレームを覗き込みながら頭の中でプリントをしたときの状態を想像していると、久美子が興味深げに訪ねてきた。私は話を続けた。

 「写真の大学に行ってたの。商業写真の勉強を2年間みっちりしたんだ。成績もまぁまぁだったかな。卒業したら広告関係のカメラマンになるつもりだった、もちろん最初はアシスタントからだけどね」 

久美子は近くにあったベンチに腰を下ろし私の話を聞く体制を整えている。

 「でも、卒業間近に考えが変わったんだ。」

 「どうして?」

 「卒業製作っていうのあるでしょ、それでね、今までの授業とは少し違う自分の撮りたいものを撮りたいように、そして、表現したいように撮影してみたんだ。もう、遊び感覚で。めちゃくちゃ楽しかった。出来上がった作品も自分自身すごく好きになれた。お陰で卒業展の出品作品にも選ばれたし。学生の頃なら、たとえ商品にしろ人物にしろ、撮りたいものを撮りたいように撮れていたけど、社会に出てしまえばどうしても商業ベースになって、自由に撮れないでしょ。クライアントの言う通りに撮らなきゃならないし、『是非あなたにこの商品を撮って頂きたい』って言われる程の人なら話は別だけど。」

 「それぐらいになるにはどの位かかるの?」

 「人それぞれ。一生バーゲンセールのチラシで終わる人もいれば、いろんなファッション雑誌から引っ張りだこな人だっている。地道にアシスタントから初めてカメラマンになる人もいれば、たまたま、何かの賞を取ってそれが時代にのってて、ポンと有名になってしまう人もいる。」

 「亜紀ちゃんはどっち?」

 「分からない。でも、これだけは分かったんだ。自分にとって写真て自己表現の一つなんだよね、つまり、プリントして出来上がったものは私自身なわけ、それを、とやかく言われるのはご免だって。『ここをもっとこうして』て言われるのは、『整形手術してくれ』と言われているのと同じに聞こえるんだ。私にはそれが我慢できなかった。だから、プロになるのはやめた」

 「芸術肌だったんだね」

 「そういってくれるとありがたい。本当はただの我儘なだけなのかもしれない。いろんなこと言われながら私の友達はそれでもみんな頑張っているのに。」

 「でも、今、コピーライターの仕事してるんでしょ。『コピーを書き直せ』と言われるときは我慢できるの?」

 「うん、それは平気なの。不思議なことに、苦にならない。あまり何度も言われれば、違う意味でムッとしてしまうけど、新しい自分がいくつも発見できるって感じ。写真のようにプリントされてハイ、出来上がりじゃなくて、言葉のパズルでいくつもの作品が出来上がるものだし」

 「むむ?難しいけどなんとなく分かる」

 「例えば、リンゴの広告を作りたいとするでしょ、リンゴそのものの写真を撮らなきゃいけないとする。写真ではリンゴはリンゴ。どんなアート的に撮影してもリンゴなんだよね。これが広告写真でなければ自由に変身できるけど、商品をリンゴ以外のものにしたらそれはリンゴの広告じゃなくなってしまうでしょ。でも、言葉だったら、リンゴはいろんなものに変身出来るんだよ。『子供の真っ赤なホッペ』になったり、『初恋の甘酸っぱさ』になったり、はたまた、『ジーンズで磨いた』とかイメージっぽくしたり、なにも"リンゴ"って言葉使わなくても成り立つんだもの。それに究極を言えば、リンゴという言葉を使っても、りんご・リンゴ・林檎・RINGO・アップル・・・。」

私はそう言いながら、土の上に文字を書いて見せた。

 「なるほどそうかぁ、そうなんだぁ。で今、コピーライターとして頑張ってるんだね」

 「と、思うでしょ」

 「えっ、まだ何かあるの」

 「なきゃ、ここにいないよ。」

 「何があったの」

 「あったと言っても、これまた私の中での葛藤なんだけどね。コピーライターっていってもただ文章を書くことが好きだというだけで何の勉強もしていなかった。大学時代は、写真ばっかり撮っていたし。なんとか今まではごまかせてたけど、そろそろ限界を感じてきたんだ、自分自身に。嘘の自分が嘘のコピーを書いてるっていう罪悪感にかられてしまったのさ。カメラマンをやめた理由と矛盾してるぞって思ったんだ。で、日本に帰ったら夜間のコピーライティング専門学校に通う。もちろん昼間は仕事をしながらね。実は、入学金も振り込んであるの。また、一からやり直しってことかな」

 「そのケジメとしてここに来てるんだ」

 「まぁ、そんなカッコいいものじゃないけど、一応ね」

 今までの自分自身との葛藤を人に話すにあたって大した時間は必要としなかった。あれだけ悩んであれだけ長い間、心が詰まった様な状態だったのに、今となってはまるで空洞を思わせるほどの解放感だ。しかし、その解放感は、日本に帰る日が近づくにつれて、空虚感へと変わっていくように思え、不安な気持ちになった。風はゆっくり吹いている。そんな気持ちにかられ私は、風車小屋の写真を自分のカメラで撮影することが出来なかった。

 「亜紀ちゃんにね、撮ってもらいたいものがあるの。」

 久美子が言うに、それは一本の木と、その前に置いてある古びたベンチらしい。そこが秘密の森の最終目的地なのだ。

 オランダの風景から一変して、イギリス独特の風景にもどっていった。冬にもかかわらず青々とした芝生が続く広い公園に、0.5ha ほどの池。子供たちが自作のヨットを浮かべて遊んでいる。すぐ近くには、そんな情景を上から眺めて微笑んでいるような一本の木。そして、古びたベンチ。ベンチには、恋人同志の名前がいくつも刻まれている。何組もの恋人たちがこのベンチに座り、池の前で戯れる子供たちの姿に、昔の自分やいつか二人の間に生まれるであろう小さな命に、だぶらせているのだろうか。

 私は自分のカメラを覗き込み、22歳最初のシャッターを切るため、さまざまな角度からそのベンチと一本の木を、フレームの中におさめようとした。何か変わったアングルはないかと散々悩んだあげく私は、今の自分の気持ちに正直に、ごく自然にストレートな角度のアングルを探し、カメラアイを腰のあたりに持っていくためしゃがみ込んだ。そして、ゆっくりとシャッターを切った。

 

 ウィンブルドンの町並みは、ロンドンの中心街とは異なった雰囲気を持っている。まさに閑静な高級住宅街といった感じだ。私たちはそんな町並みを歩いている。特別テニスに対して執着心があるわけでもないが、今日は観光に徹してみようというお互いの考えから、テニス場へと足を向けている。

 「私の父親がねえ、テニス気違いなんだよせっかくの休みの日くらい家でゴロゴロしてればいいのに、朝早起きしてスポーツドリンクなんか自分でこしらえちゃって、短パン姿でサッソウと出かけてくのよ、真冬でもだよ」

 「何の趣味もないようなおじさん連中に比べたら全然かっこいいよ」

 「それは、そうだけど、私がロンドンに行くって決めてからずっと、ウィンブルドンの事ばっかりで、『私が行くのはロンドンだ』っていってるのに、『ウィンブルドンかぁ』なんて言って一人でブツブツいってたり」

 「それじゃぁ今日ここに来たことなんて言ったら大変だね」

 そんな会話をしているうちにテニス場に到着した。残念なことに、『本日、センターコートの見学はお休みしております』という張り紙がしてあった。楽しみにしていた訳でもないのだが、『ふっふっふ、父親に自慢してやろう』と思っていた私としては、少し悔しく感じた。それでも、テニスの歴史などを紹介している展示物はなかなか面白く見学でき、『父親につき合ってテニスでもまじめに始めて見ようかな』という気にさせられた。

 展示会場を抜け出ると、お約束といわんばかりに、お土産コーナーにキーホルダーなどが陳列してある。私は、父親がテニス仲間に『いゃ〜娘があのウィンブルドンで買ってきたんですよ』などと自慢げに話す姿を想像しながら、白地にウィンブルドンカラーが鮮やかなVネックのセーターを誕生日プレゼントとして購入した。しかし、サイズが大きすぎたらしく、未だに一度も着てもらえていない。

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9.NO.44の部屋

  ブリティッシュミュージアムに私はいる。これで3度目の来館になるのだが、何度来ても飽きることはない。全ての部屋を見るためには相当の時間がかかると言われているが、1度目も2度目も、思ったほど広いとは感じなかった。もちろん、今回も。ただ、時間が止まってしまうという感覚に陥る。人はその所為でこの美術館を途方もなく広いと感じるのかもしれない。

 NO.44の部屋が私は一番好きだ。この部屋の時間は長い。まさに止まっているようだ。アンティックな柱時計を始めとしたさまざまな時代の時間を表現する物たちが所狭しと並んでいる。時を打つ、"カチカチ"という乾いた音が、『今』という時間を2倍にも3倍にも膨らませる"カチカチ"の繰り返しだけを聴いているうちに、1時間は平気で過ぎていく。今日はどのくらい、時間の飽和状態を楽しんでいられるだろうか。

 "カチカチ"が四方から聞こえ、こだましている。目に見えない止まった時間を捕らえておくために、シャッターを切らずにはいられない。ただ闇雲に空間を切り取っていく。それはまるで自分が今ここに生きて、存在している証となるものを、必死になって掻き集めているかのようにも思える。

 写真を撮るとき、よく時計をモチーフとして作品を創ってきたが、自分自身何故こんなにも時計という素材に心惹かれていくのか分からずにいた。NO.44の部屋は私にその答えを教えようとしている、そんな風に感じた。

 『私は今ここに存在していて、積み重なる時間の中で生きている。それを証明できるのは他人の目でも自分自身の口でもない。きっと私の目が見た全てのものを、どう残せるかにかかっている気がする。そして私にはシャッターを切るという手段があるのだろうか。』そんなことを考えながら、またシャッターを切った。

 少し哲学しすぎたかなと自分自身に照れながら、私はNO.44の部屋を出る。ミュージアムを出ると既に日が暮れていた。

 ミュージアムの入口には必ずと言っていいほど焼栗の屋台が出ている。ロンドンに焼栗なんてあるんだ・・・と思いながらも、いつも買わずに帰ってしまっていた。カメラやフィルムをいじる手が、汚れてしまうことに躊躇してのことだった。今となっては、香ばしい薫りに誘われるまま、一度は食べておけば良かったと後悔している。日本で天心甘栗の屋台を見るたびに、私は思い出す。

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10.雪の日の出会い

 今日は、とても寒い一日だった。ロンドンではめったに雪は降らないのだが、今年は4年ぶりの雪らしい。しかも大雪。交通関係も目茶苦茶で、学校からやっとのことで寮の近くまで帰ってきたという感じ。

 夕食と暖を取るために私は、キルバーンステーション前の店でいつものようにキドニーパイをかじり、ブラックティーを飲む。ここは、私のお決まりの定食屋のような店である。ここの紅茶は美味しい。高級ホテルのアフタヌーンティーもいいけれど、素朴で味の濃いここの紅茶が私は好きだ。味が濃いというのにはわけがある。ただ単に粗雑に入れた紅茶という意味ではない。実は、イギリスで紅茶というと、一般的にはミルクティーなのである。「ア・カップ・オブ・ティー・プリーズ」とオーダーすると大抵は、ミルクティーが出てくる。つまり、ミルクを入れる前提でいれてある紅茶なので味が濃いわけだ。しかし、私はミルクが苦手。ちゃんとミルクなしと、オーダーしなければたっぷりのミルクがはいった紅茶を出されてしまうというわけだ。そしてミルクを入れない紅茶こそ、今飲んでいるブラックティーなのだ。日本ではよくストレートティーというが、ここではあまり通じない。「ブラックティー・プリーズ」と言わなければいけない。とはいうものの、この定食屋のおじさん、私の顔をすっかり覚えていて、私が店に入ってくるなり、「ラージ?orスモール?」としか聞かない。私は決まってラージをオーダーし、砂糖を3杯も入れてゆっくりと飲む。

 そうやってくつろいでいると、懐かしい日本語が耳に入ってきた。

 「すいません、日本の方ですか?」

振り向いて驚いた。頭の先からつま先まで雪で真っ白だ。外は吹雪になっていたのだ。

 「どうしたの」

 「友達の家に行きたいんだけどタクシーがつかまらなくって」

 「もし、今日タクシーつかまらなかったらうちの寮に泊めてもらえばいいよ」

 とにかく彼女の身体を暖めるのが先だと、マスターにミルクティーを一杯オーダーした。話を聞くと、彼女はまだ18歳で高校を卒業したあとこちらの大学に入学するため、下見に来ているのだそうだ。つまり、私よりも英語力は堪能というわけだ。実際、相席になった黒人に『いやーまいった、まいった』といった雰囲気でペラペラと話し始める。まるで、ネイティブスピーカーの様だ。思わず気後れしてしまう。とはいえ、やはり18歳の女の子、不安はあるらしい。今日、声をかけた日本人は私で2人目だという。

 昼間、時間を聞いただけなのに、なぜか意気投合してしまって、明日また会うという人がいるらしい。相手は私より1つ年下の男の子で、彼もまた初めてのロンドンで分からないことだらけだったらしく、英語力のある彼女にひかれた一人だ。彼女は彼を私に紹介したいと言う。、明日の待ち合わせに一緒に来てほしいとしきりに頼み込む。断る理由もなく、私は明日の2時に予定を入れた。

 やはりタクシーはつかまらなかった。寮へ戻り、ホストファザーに宿泊の許可を取り、"彼"とその仲間に初めて出会う朝を、向かえることになる。

 つづく

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